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zoom RSS 難波宮跡公園と大阪歴史博物館を訪れ、難波宮とかつてこの辺りは海に囲まれていたことを知りました

<<   作成日時 : 2016/11/26 09:15   >>

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大阪城跡公園の南西にある難波宮跡公園では、 難波宮の大極殿基壇や内裏、朝堂院などがレンガ・土盛りなどで復元整備されています。
難波宮跡公園はビルで囲まれています。
かつてこの周辺はたび重なる開発で消滅の危機に瀕しましたが、「遺跡は一度壊したら再びつくれない」と山根徳太郎の執念と多くの大阪市民の力で、大都市の中に史跡公園として保存されてきたのです。
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難波宮跡の向かいにある大阪歴史博物館の10階古代フロアでは、難波宮の大極殿内部を原寸大に復元した空間と飛鳥時代と奈良時代の前後2時期の難波宮を紹介する常設展示があります。
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訪れた当日、日曜日の13時からは、学芸員の方が展示解説をされていましたので、古代の難波、前期難波宮、後期難波宮のことがよくわかりました。

古代の難波
上町台地の北部にある難波は、今では想像ができませんが、辺りは海に囲まれていました。
約5,000年から4,000年前の縄文時代は上町台地の西に大阪湾、東に河内湾がありました。
約2,000年前の弥生時代には河内湾は河内湖になり、古墳時代以降は河内湖に堆積が進み、現在の大阪平野が形成されていったのです。
飛鳥時代には難波津という港があり、外交使節の滞在と儀式、宴会に必要な施設があり、難波は遣隋使等の出発、外交使節の来航があり、外交の窓口としての役割を担っていました。
遣隋使の小野妹子が隋の裴世清を伴って帰国し、難波で歓迎の儀式を行ったという記録もあります。


前期難波宮
飛鳥の朝廷で権勢をほしいままにした蘇我氏を倒した大化改新の後、651年、孝徳天皇と中大兄皇子は新しい政治を行うために飛鳥から難波に遷都しました。
新政の象徴として新たに難波に宮殿「難波長柄豊碕宮」が造られました。
これが前期難波宮で、左右対称の建物配置で中軸線が正南北方向に向き、掘立柱の板葺きの巨大な建物が特徴でした。
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後期難波宮
奈良時代、聖武天皇が平城京から恭仁京へ、さらに744年、難波に遷都しました。
これが後期難波宮で、左右対称、中軸線は前期難波宮と同じで同じ場所に建ちますが、石造りの基壇の上に柱は礎石建ちで朱塗り、屋根には難波宮独特の文様を持つ瓦が葺かれていました。
大極殿があり、そこで元日朝賀、外国使節の謁見などの国家的儀式が行われました。
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後に平城京から長岡京への遷都に伴い、難波宮の大極殿等は解体し移築され、難波は都としての役割を終えたのです。


難波宮跡公園と大阪歴史博物館のマップ


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