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zoom RSS 大阪歴史博物館で開催されていた真田丸展の観覧と、大坂夏の陣での真田信繁(幸村)ゆかりの地を訪れる

<<   作成日時 : 2016/11/26 09:15   >>

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NHK大河ドラマ「真田丸」を毎週、楽しみにしている私ですが、大阪歴史博物館で開催されていた真田丸展と、大坂夏の陣での真田信繁(幸村)ゆかりの地、茶臼山古戦場跡と安居神社を訪れてきました。

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     大阪歴史博物館10階から見た大坂城跡の景色

真田信繁(幸村)について

真田信繁は、戦国時代の中、めまぐるしく主君を変える真田家にあって、父の昌幸・兄の信幸(信之)のもとで成長していきます。
その後、関ヶ原の合戦では西軍の石田三成に味方し、上田城で東軍の徳川秀忠軍の足止めに成功しましたが、結局、西軍は敗退。昌幸・信繁父子は高野山・九度山に幽閉の身となります。

しかし、信繁に転機が訪れます。豊臣家と徳川家の最終決戦「大坂の陣」が起こると、信繁は大坂城に入城。
大坂冬の陣では、大坂城の東南に真田丸と呼ばれる出城を作って徳川方を迎え撃ち、翌年の夏の陣では、寡兵ながらも果敢に徳川方を攻め、その奮戦ぶりは家康に死を覚悟させるほどだったと後世に伝えられています。 

真田丸展で特に印象に残った展示品

1.薙刀(越葵文庫蔵)
2.采配(越葵文庫蔵)

真田信繁(幸村)所用と伝わる2つ。
信繁を討ち取った越前、松平忠直の家臣・西尾家に伝わったもの。
采配の紙の房部分には血痕の思われる染みが残っていて、幸村血付き采配といわれています。

3.革製六連銭紋旗指物(個人蔵)
丈夫な革製の地に真田家の家紋「六連銭」が上下二ヶ所に金で印されています。
真田昌幸所用と伝わる具足とともに伝来しました。
大坂夏の陣では、真田隊は旗指物も甲冑も含め、武田家伝来の赤備えに統一したといわれています。

4.鹿角・六連銭紋旗指物(個人蔵)
真田家の家紋「六連銭」と図案化された鹿角を三組配した旗指物。
大坂夏の陣で、真田信繁は鹿角の兜を用いたことが「大坂夏の陣図屏風」によって確認できます。

5.上田城出土瓦(上田市立博物館蔵)
鯱瓦片の背びれと腹部に漆と金箔がわずかに残っています。
関ケ原の合戦以前のものと推定され、第2次上田合戦で徳川秀忠を足止めした時の上田城を飾っていたのではないかと思われます。

6.直江状(米沢市上杉博物館蔵)
上杉景勝家臣の直江兼続が書いた徳川家康に対する反論書状。
徳川家康が激怒し、会津征伐につながり、関ヶ原の合戦へと展開していったとされています。

7.大坂冬の陣配陣図(大阪歴史博物館蔵)
大坂城に立て籠もる豊臣方と包囲する徳川方の陣容が描かれています。
豊臣方10万に対し、徳川方は20万と倍の兵力であったが、惣構の強固な防衛線によって徳川兵は城内に侵入できませんでした。

8.大坂御陣真田丸之図(前田育徳会蔵)
大坂冬の陣で大坂城を攻撃して、苦戦を強いられた前田家に伝わる真田丸の図。
真田丸内に「真田左衛門」の名前が記されています。

1614年12月4日の明け方より、真田丸に徳川勢が圧倒的な兵力で攻撃を開始しました。
しかし、堀、土壁、三重の柵、堀、櫓による真田丸の守りは強固で、また真田信繁隊は的確な銃矢攻撃をしかけたので、戦功を焦って統率が乱れた徳川勢は大敗北を喫しました。
徳川家康と秀忠は、その結果を聞いて大激怒したといわれています。

9.真田信繁書状 むらまつ宛(複製)(上田市立博物館蔵)
大坂冬の陣後、姉へ無事を知らせる手紙で、女性にあてた仮名文字で書かれています。
日の本一といわれた真田信繁にもきめ細かな気遣いを持って家族を思う一面があることが印象的でした。

10.真田信繁書状 小壱岐・同主膳宛(複製)(上田市立博物館)
姉の夫と子に宛てた、もうこの世のものとは思ってくださるなと、死を覚悟する大坂冬と夏の陣の間に書かれた書状。

11.緋羅紗地大に渦巻文様切付陣羽織(高知県立高知城歴史博物館蔵)
毛利勝永形見の陣羽織。
大坂夏の陣で、徳川方の部隊を次々と撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという活躍を見せた。
しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、反撃に転じた徳川方の四方からの攻撃を見事に防いで城内へ撤退しましたが、翌日、豊臣秀頼の介錯を行った後、自害しました。
活躍のわりに名前が知られておらず、「惜しいかな後世、真田を言いて毛利を言わず」と謳われた勇将。

12.某条書案(東京大学史料編纂所蔵)
「真田日本一の兵、いにしえよりの物語にも之なし」
文禄・慶長の役でその武名を異国にまだとどろかせた島津家の文書。
徳川家康の本陣に三度も突入して散った信繁への敵ながらあっぱれの賛辞にほかならないでしょう。

13.高台院書状 大崎少将宛(仙台市博物館蔵)
豊臣秀吉の正室であった高台院(北政所)が伊達政宗に宛てた自筆書状。
大坂落城から12日後のもので、「大坂の事は何とも申し上げる言葉がございません」と複雑な心境をのぞかせます。


茶臼山古戦場跡
1615年5月7日、茶臼山に陣を構えた真田信繁隊3500は、徳川方の松平忠直率いる越前勢15000と激突し、大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられました。
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数では劣る真田隊でしたが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めます。
家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わっています。

しかし、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅します。


安居神社
激戦を戦い抜いて疲弊した真田信繁は、茶臼山の北にある安居神社で休息しているところを越前兵により討ち取られました。
境内には、真田信繁が力尽きたところを見送ったと伝わる松の木「さなだ松」と銅像があります。
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戦国乱世を生き抜いた真田家 〜昌幸・信之・幸村のゆかりの地を訪ねて〜 (長野、上田・松代 2006)

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